視察先 :沖縄県糸満市
視察内容:「平和行政について」

1.はじめに

糸満市では、平成5年12月1日に平和都市宣言が制定され、平和推進事業が進められています。

【糸満市平和都市宣言】
まちには 人々の笑顔がある
青い海には 魚たちが舞い
ひかりの陸(おか)には 作物がある

ここは 私たちのふるさと

海のかなたの国々にも
同じ地球の 人間のくらしがある
意地ぬんじらぁ 手引き
手ぬんじらぁ 意地引き

私たちは
み霊の眠る「平和の杜(もり)」に誓う
みどりの山河を愛し
いのちの尊さ 命どぅ宝を
いつまでも 伝えていくと

そして くらしと自由を守り
沖縄の 日本の 世界の
永遠の平和を
いのり求めていくことを
この民々の声を
平和都市 糸満市の宣言とする

平成5121

 【戦後の沖縄】
戦後復興は、遺骨収集から始まり、各地域で戦没者の御霊を弔うため納骨所や慰霊塔、慰霊碑が建立されました。戦後79年が経ち、沖縄は先人たちの努力によって発展を続けてきましたが、いまだに「基地問題」「不発弾処理」など多くの問題を抱えています。最近では、宮崎空港の不発弾爆発がニュースとなりましたが、仙台空港や那覇空港には、まだ処理されていない不発弾が多数埋まっていると言われています。不発弾処理には、一日平均1件以上のペースで続けられていますが、すべての処理には、なんと、あと70年から100年かかるとされています。

平和都市宣言 糸満市ホームページより抜粋 https://www.city.itoman.lg.jp/

2.視察項目

⑴ 平和推進事業「平和の語り部育成事業」について

戦争を知らない世代のさらに子や孫である若い世代に沖縄戦の実情を。わかりやすく伝え、歴史を後世に伝える人材を育成する目的で、糸満市の先進的かつ意義深い平和教育が行われています。(糸満市企画部政策推進課様よりご教示いただきました)

① なぜ平和推進事業を行っているか
第二次世界大戦末期、激しい地上戦となった沖縄戦で20万人の尊い命が失われ、糸満市は、「沖縄戦終焉の地」ともいわれ、戦争遺構や慰霊塔が多く点在しており、悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない、世界の恒久平和実現のため、糸満市から戦争の悲惨さ、平和の尊さを発信し続けています。

② 平和祈念祭推進事業について
6月17日から23日まで「平和週間」と定め、糸満市平和祈念祭を開催しています。平和の礎の拭き清めを行い、亡くなられたすべての人々を追悼しています。また、平和関連の舞台演目として、絵本「ひめゆり」の朗読や、歌と書道のパフォーマンスを行ったりしています。

③ 「平和の語り部育成事業」
戦争を知らない世代のさらに子や孫である若い世代に沖縄戦の実情をわかりやすく伝え、歴史を後世に伝える人材を育成することを目的に実施されています。戦争体験者が年々少なくなっており、語り継ぐことが困難になっているからです。
中学1年生から高校3年生が中心の中高生のこれまでの参加実績は、今年度18名が参加し、累計の研修修了生としては、2021年129人、2022年136人、2023年143人と、年々増加しています。
成果発表会と修了式の状況ですが、市内の慰霊碑などを巡りながら、慰霊碑にまつわる話や建立された経緯について、フリップを使いながらわかりやすく発表する様子が見られました。成人してからの活動は、語り部として、学校の授業などに出向き、若い世代に語り継いでいくことを実践されております。

④ 戦争遺構の保全・活用
戦争体験者の高齢化や少数化により、戦争の記憶継承がヒトからモノへと言われています。糸満市では、激戦地であったため、住民洞穴など市内に点在する避難壕「ガマ」や戦争で被害を受けた構造物の保存は、戦争の記憶を伝える「物言わぬ語り部」であります。若者に対する生きた教材を保存し、活用しています。
今回の視察では、課題について、これま3D撮影や360度カメラによるVR作成などが行われていますが、自然洞穴が多いがゆえに自然風化の懸念、ほとんど民有地であるため、利活用が困難、安全性を保つために鉄骨を組んだりすると莫大な予算で建設費や維持費がかかることなどが挙げられておりました。

⑵ 「市民が語る戦中戦後史」映像記録事業について

戦争を知らない世代のさらに子や孫である若い世代に沖縄戦の実情を。わかりやすく伝え、歴史を後世に伝える人材を育成する目的で、糸満市の先進的かつ意義深い平和教育が行われています。(糸満市企画部政策推進課様よりご教示いただきました)

①担当する生涯学習課文化振興係所管
沖縄戦糸満市の戦中戦後をまとめた市
糸満市史資料編7 戦時資料 上巻2003年

市民の被災状況をまとめた表や各字ごとに戦争体験談を掲載した市史
同 下巻1998年

②予算 沖縄振興特別推進交付金により2015年・2016年に実施
沖縄戦体験者へのインタビュー映像を個人別証言として編集
業務委託先 琉球朝日放送
個人別証言記録
2015年 31名  2016年 24名

③平和学習教材としてDVDを活用するため市内全小中学校への配布
市立中央図書館でも視聴できる
生涯学習課にて随時貸し出し

④活用整備の課題と展望
戦争体験者の高齢化に伴い、生の声で証言を聞く機会がさらに減少している
学校現場で担当者が異動でかわると引き継がれない
映像補助教材手引書を作成
校長会・教頭会で周知

3.資料

本県と糸満市を結ぶ貴重な記録や映像データがありました。私たち会派の訪問団は、これらを事前学習資料として活用させていただきました。

⑴ NHK アーカイブス 2008

沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~

太平洋戦争で、国内 最大規模の地上戦の舞台となった沖縄本島では、住民を巻き込んだせい惨な戦いが繰り広げられた。日本の敗色が濃厚となっていた昭和20年3月、米軍は54万の兵力と最新鋭の兵器を投入し、沖縄への上陸作戦を開始する。沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3,000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。敗北が決定的となった後も、日本軍は戦いを続け、さらなる悲劇を生む。無謀な戦闘の継続が多くの住民の命を奪うことになったのだ。第32連隊の元兵士たちの証言から住民を巻き込んで繰り広げられた沖縄戦の実態を描く。

山形県出身 浜本俊則氏の証言 「動けない傷病兵の運命」

歩兵第三十二連隊は悲運を辿り、太平洋戦争で、沖縄県の防衛に駆り出され、山形県出身者約3万8,000人が犠牲になったとされます。沖縄県には、こうした山形県出身の戦没者を慰霊する「山形の塔」も建てられており、今に至るまで両県の交友は続いています。

山形の塔では、軍旗は天皇陛下か天皇から直接手渡しで授けられる極めて神聖なものであり、また天皇の分身であると認識され、たいへん丁重に扱われため、敵の手に渡さないようにと、焼却処分された場所でもある。

(資料から抜粋)
故郷山形城が「霞城」と呼ばれていた為、別名「霞城部隊」と呼ばれていました。沖縄戦の前年の1944年に所属していた「第24師団」ともに、沖縄に配属されました。沖縄戦が始まると日本軍の司令部がある首里の北側の守備を任されます。激戦となっていた前田高地で戦い、西原村(現西原町)では棚原高地を奪うなど戦果をあげましたが、19455月下旬日本軍の首里撤退とともに、「歩兵第32連隊」も南部に撤退しています。沖縄戦は1945623日、日本軍第32軍司令官「牛島満中将」が自決し、日本軍の組織的な抵抗が終了しました。

しかし、第32軍司令部の最後の打電が、(本土防衛の時間稼ぎのため)最後まで抵抗を命じたものであったため、残存兵力の散発的な抵抗は続きました。中でも、精鋭と知られた「山形歩兵第32連隊」(以下歩兵第32連隊)は沖縄戦終結はおろか、日本の終戦後も投降せず1945829日まで戦いました。

「第32連隊」はどのような部隊だったのか、どのように投降していったのか。南部撤退後の6月初旬、「歩兵第32連隊」は南部のガマを使用し、アメリカ軍に徹底抗戦をします。尚、一部のガマは元々住民の避難壕でしたが、中の住民を追い出し接収しました。このあたりは「歩兵第32連隊」の証言でも残っています。圧倒的な兵力でアメリカ軍は沖縄本島南部を制圧していきます。

しかし日本軍の司令部は最後まで抵抗を命じたので「歩兵第32連隊」はその後も戦い続けます。「歩兵第32連隊」は生き残った連隊長のもと陣地と化したガマを堅持し、完全な指揮系統を保ったままゲリラ戦を展開し、アメリカ軍を悩ませます。実はこの頃になると、アメリカ軍の攻撃が緩和し、夜間はほとんど攻撃がなかったので、食料の確保や補充、陣地の補強などをしていたようです。その後7月後半には沖縄本島北部国頭へ(日本軍が沖縄本島北部から援軍にくると噂が流れ合流し戦うため)移動しようしていました。まだまだ戦意は衰えておらず、815日の終戦後も日本軍の勝利を信じて戦いました。

⑵ 糸満市内慰霊塔・資料館を訪問

糸満市内にある本県戦没者の慰霊塔「山形の塔」はじめ平和祈念公園などを訪れました。私は、38年前の昭和611986916日、当時板垣清一郎団長のもとに第9回山形県青年洋上大学寒河江市代表としての沖縄訪問以来、およそ38年ぶりの慰霊の訪問となりました。

①山形の塔
糸満市の字真栄里に建立されている山形の塔に慰霊参拝を行いました。敷地面積1,005㎡で昭和40196526日に建立されました。合祀者数31495柱うち沖縄戦戦没者676柱が祀られています。
塔の周りは、大変きれいに整備されておりました。沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3,000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。このすさまじい戦争の惨状を微塵も感じさせない静寂の中で、「尊い命が無事帰還し、家族が待つ実家に帰ることがなかった先人の皆様に手を合わせ、二度と戦争を起こさない社会にするため、平和を守っていく覚悟を新たにしました。

②ひめゆりの塔 ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆりの塔は、ひめゆり学徒隊の最後の地の一つである伊原第三外科壕の上に建てられた慰霊碑で、同壕は沖縄陸軍病院第三外科勤務の職員やひめゆり学徒隊が南部撤退後に避難した壕です。1945619日朝、米軍の攻撃により、多くの生徒や教師が亡くなりました。38年ぶりの参拝でした。
ひめゆり平和祈念資料館は、戦争の悲惨さや平和の大切さを後世に語り継ぐために、1989623日に開館し、私は初めて訪れました。ひめゆり学徒の遺品、写真、生存者の証言映像、南風原の陸軍病院壕の一部や伊原第三外科壕内部を再現したジオラマなどが展示され、当時の無残な学徒の皆さんのお一人おひとりの遺影が涙目に焼き付いています。

③平和祈念公園 平和祈念資料館 平和の礎
平和祈念公園は本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、 海岸線を眺望できる台地にあり、公園内には沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そして摩文仁の丘の上には国立沖縄戦没者墓苑や府県、団体の慰霊塔が50基建立されています。
国内外の観光客をはじめ、慰霊団、修学旅行生等が多く訪れる聖地であり、観光の要所ともなっています。私たちが訪れた時も、多くの修学旅行の生徒の皆さんが、記念写真を撮ったり、かたずを飲んで資料を読んだりしておりました。

4.所感・考察

自民党総裁選出馬のある候補者が、政治とカネの問題に蓋をし、憲法改悪を公約にしましたが、非常に残念でなりません。私は、自民党憲法改正草案の問題点について、以前から申し上げておりますが、第二次世界大戦敗戦後80年を経過しようとしている現在、戦前回帰の状況となっています。
さて、この夏開催されたパリオリンピックが平和の象徴とはならず、開催されている期間も一時停戦がなされませんでした。開会式や閉会式の華やかな映像とは裏腹に、ウクライナやロシア、パレスチナ・ガザ地区やイスラエルから悲惨な映像が毎日報道されていました。国連安全保障理事会がほとんど機能していないことによって、パレスチナ・ガザ地区の死者は、本市の人口を上回る41,000人超となりました。
パリオリンピック卓球女子団体銀メダル、女子シングル銅メダルに輝いた「早田ひな」選手が、利き腕の左手を負傷し苦しみながらも戦い抜いたその姿に、多くの人が感動を受けました。その早田ひな選手の帰国後の記者会見発言が話題になりましたが、彼女は「鹿児島の特攻資料館に行きたい」と述べ、生きていることや卓球ができることが当たり前ではないと感じたいと語りました。この発言は、彼女が平和の大切さや命の尊さを深く理解し、特攻資料館を訪れることで、戦争の歴史や犠牲を学び、現在の平和な生活が多くの犠牲の上に成り立っていることを実感したいという思いが込められています。鹿児島県には、南九州市知覧町の「知覧特攻平和会館」や、南さつま市の「万世特攻平和祈念館」、鹿屋市の「鹿屋航空基地史料館」など特攻隊関連施設があるわけですが、早田選手のこのような姿勢は、多くの人々、特に同世代の若者や子供たちに感動を与え、平和の重要性を再認識させるきっかけとなっています。

私は、9月定例会の一般質問で、これまでの経過を踏まえ、何点か提言してみました。以下、議事録の抜粋です。

世界で初めて原子爆弾が投下された「ヒロシマ」「ナガサキ」と唯一の地上戦が行われた「オキナワ」への小中学生訪問事業について

【質問】
この質問は、何度か取り上げさせていただいており、歴代教育長からご答弁されているところです。「今後、実施できるか検討してまいります」ということで、継続となっている課題ですが、検討状況についてお尋ねします。

去る6月23日79回目の沖縄慰霊の日。私は、NHKスペシャルの録画を見ました。発掘された米軍アメリカ海兵隊の戦闘記録として、通信兵が30時間録音した生々しい爆音と肉声、すさまじい映像は、まさに残酷で狂気の極み、地獄と化した琉球列島の記録でありました。 米軍54万人の総攻撃を受け、日本軍10万人が奇襲作戦など壮絶な迎撃で立ち向かいました。集団自決など犠牲になった一般住民は9万人以上。日本兵のほかに米兵や外国籍の人々、全体で20万人もの貴い命も失われ、沖縄の土となっているのでございます。沖縄戦で犠牲を強いられた県民、兵士の遺骨が今もなお数多く残されており、戦後79年を経た今でも戦没者の遺骨収集が行われています。本県出身の将兵等も、32連隊に所属し、1945年8月28日まで降伏せず、沖縄南部現在の糸満市で本土防衛のために最後まで戦い、776名、本市では36名の貴い亡きがらが沖縄の土になっています。
帰還された本県出身の浜本俊則氏の証言で 「動けない傷病兵の運命」によれば、歩兵第三十二連隊は悲運を辿り、太平洋戦争で、沖縄県の防衛に駆り出され、山形県出身者をはじめ約38000人が犠牲になった。沖縄県には、こうした山形県出身の戦没者を慰霊する「山形の塔」も建てられており、今に至るまで両県の交友は続いている。山形の塔では、軍旗は天皇陛下か天皇から直接手渡しで授けられる極めて神聖なものであり、また天皇の分身であると認識され、たいへん丁重に扱われため、敵の手に渡さないようにと、焼却処分された場所でもある。と。

戦没者の貴い犠牲の上に平和を享受してきた私たちが、戦争の犠牲となった人々の遺骨の眠る土砂を基地建設の埋立て等に使うことは人道上許されることではなく、本来であれば戦没者の遺骨は遺族の元にこそ返されるべきであり、あってはならないことでございます。
現在の広島・長崎・沖縄を訪ね、過去の悲惨な戦中・戦後の史実を学び、未来の平和の礎を築くためにも、各地への小中学生訪問を行うべきです。特に、小学校、中学校の統廃合による再編計画が決定し、児童生徒たちが違う学校の友人をつくることが大変重要になっている今、こうした学校を超えた学び、現地訪問による平和教育など充実させ、いわゆる接着剤にしていかないといけないと思います。
さて、過去の質問で県内先進自治体南陽市および最上広域市町村圏事務組合の取り組みをご紹介しましたが、本市の取り組みについてどのように検討されたのか、教育長にお尋ねいたします。
南陽市議会では、市内中学生の沖縄県の修学旅行について検討し提言するため、議会運営委員会が沖縄県糸満市と協議するため、10月9日に現地に入ると伺いました。沖縄の中学生を修学旅行で南陽市に受け入れる計画もあるそうです。本市でも、活きた平和教育にチカラを入れていただければ、中学生も平和憲法を大事にすることにつながっていくと思います。

【資料】
南陽市教育委員会
令和5年度 南陽市中学生地域間交流セミナー事業 実施報告
(南陽市教育委員会 学校教育課 ホームページより抜粋)

1.目 的
本セミナーは、中学校2年生を対象に、南陽市と異なる歴史や文化等を有する特色の ある地域との交流事業を通して、南陽市を外から見つめ直し、地域創生に向けた愛郷心 を醸成すると共に、将来の南陽市を担う自立した人材を育成することを目的とする。

2.期 日
令和6年1月18日(木)~1月20日(土) 2泊3日

3.行き先
沖縄県糸満市

4.研修内容
(1)事前研修会(全3回)
第1回 令和5年12月17日(日) 9:00~12:00 南陽市役所
『沖縄県への関心を高める導入とリレーション作り』 ・本事業について知る。 ・参加者同士のコミュニケーションを図り、仲間意識を高める。 ・南陽市の特色(魅力と課題)を考える。
第2回 令和5月12月23日(土) 9:00~12:00 南陽市役所
『糸満市の中学生との交流会の持ち方を話し合う』 ・中学校との交流会の具体的な内容を決定する。 ・当日までに準備することを確認する。
第3回 令和6年1月13日(土) 9:00~12:00 南陽市役所
『交流会の準備・リハーサル、役割分担、最終確認』 ・現地中学生との交流の進め方を確かめる。 ・あいさつなどの役割分担を決定する。

(2)沖縄県糸満市訪問
第一日目(令和6年1月18日(木))
多くの方々に見送くられ南陽市役所を出発した。バスの中では、JTBの佐々木社 長から全行程の確認と沖縄県や戦争に係るお話をお聞きしながら空港に向かった。 仙台は快晴、今回参加の12名中10名が初めての沖縄訪問であった。 予定通り那覇空港に到着、天気は晴れ、気温は25度。バスガイドさんから三線 を演奏いただいたりしながら温かく歓迎された。はじめに、旧海軍司令部壕に行き、 当時のまま残る戦跡に衝撃を受け、一気に参加生徒の雰囲気が変わった。次に首里 城公園に行き、令和元年の火災以降、復旧の歩みを進めている現状を見学した。確 実に復旧は進んでおり、本殿の建設も進んでいることが分かった。また、沖縄の自 然崇拝の精神についてガイドさんの説明から学んだ。 ホテルに到着して美味しい夕食を食べ、1日目の反省や感想を生徒のリードで発 表しあった。意見発表が単方向のみにならないように、人の意見に対してどう思う かを重ねていく話し合いをすることができた。2日目の行程や目標を確認して、1 日目の活動を終えた。

第二日目(令和6年1月19日(金))
快晴で、気温も高く、日差しも強い。初めに訪れたヌヌマチガマでは、現地の平 和ガイドの方より案内と説明をしていただいた。暗くひっそりとしたガマの中で、 当時の状況を思いはかり、息をひそめながら生活、医療に従事していたことを想像 し、胸が苦しくなり涙を流す生徒もいた。次に、平和祈念公園で平和の礎の説明を 聞いた。また、リニューアルされた平和祈念資料館では、特設コーナーや映像資料 を基に、戦争の犠牲となった方々に手を合わせた。さまざまな思いに触れ、改めて 戦争の悲惨さと、平和について考えるきっかけとなった。その後、ひめゆりの塔と ひめゆり平和祈念資料館を見学した。自分たちと変わらない充実した学生生活を送 っていた多くの女学生が、戦争のための教育に代わり、夢半ばで亡くなったことを 知りショックを受けていた。昼食後は、山形の塔で献花をし、山形県の戦没者の方々 に向けて黙とうした。 そして、いよいよ準備を重ねてきた糸満市立糸満中学校との交流会。2年生全員 による温かい歓迎を受けて、交流会を開始した。平和について、食生活の違いにつ いて、環境や学校生活の違いなどの話題が飛び交い、各学級で活発な交流ができた。 最後にプレゼントを渡したり写真を撮影したりして、交流を更に深めることができ た。糸満中には、糸満市や糸満中について紹介映像の発表、我々で準備した方言ク イズなどへの積極的な参加、平和と交流の「はしわたし」という意味でお箸のお土 産など、心のこもった対応をしていただいた。 その後は民泊家庭での宿泊体験。それぞれの家庭で夕食を一緒に準備し、琉球衣 装の着付け体験、ストラップづくり、サーターアンダギーの調理、三線の演奏など、 沖縄ならではの体験をたくさんすることができた。

第三日目(令和6年1月20日(土))
民泊家庭で朝を迎え、ホストファミリーの計らいで、地域住民の方と三線の演 奏などさらに交流の広がる体験をしたグループもあった。民泊解散式に集合した 際には、わずか一晩だけの民泊体験だったが、本当の家族のように関わっていた だいたことで、寄り添いながら笑顔で語りあうホストファミリーと生徒の姿があ った。今後の連絡や再会を約束し、お別れした。 その後、瀬長島のウミカジテラスを車窓から眺めながら、空港に向かった。バ スの中では、ガイドさんから沖縄の方言の歌などをプレゼントしていただき感激 していた。空港や飛行機の中では、名残惜しそうに沖縄の地を眺める様子が見ら れた。 仙台空港から市役所に到着するまでのバスの中では、3日間で特に心に残った ことなどを一人一人が自分の言葉で語りながら過ごした。解散式では、代表生徒 が、「この体験を通して学んだことを自分達だけのもので終わらせることなく発 信し、自分自身も今後の生活に生かしていきたい。」と発表し、意気込んでい た。

(3)事後研修会 令和6年1月27日(土) 9:00~12:00 南陽市役所
・セミナーを通し、これからの南陽市に向けた自分たちの考え、発信のしかたをま とめる。
・糸満市の中学校や民泊家庭へのお礼状を書く。
・一番印象に残ったこととこれから自分(たち)がすべきことについて発表する。

5.参加生徒の感想等
○「平和」について 私たちと同じように平和な毎日を送っていたはずの彼女たちが、「なぜ戦争に 参加しなくてはいけなかったのか」と強く疑問を持つようになり、そして、平和 とは何なのか考え直すようになりました。生存者の証言映像も拝見し、当時の状 況がいかに残酷で恐怖だったのかこれまで以上に深く知ることができました。 この世の中には、戦争はどんなに恐ろしくて、悲惨なことなのかわからない人 はたくさんいると思います。今回学んだことを無駄にせず、少しずつこの世の中 に広めていきたいと思います。
○人の温かさについて 実際に沖縄に行ってみて、フレンドリーで心が温かい人がたくさんいる沖縄 は、戦争という悲惨な出来事と向き合い、そして前を向いて進む中で生まれた温 かさなのだと感じました。
○交流と文化の違いについて 私のグループでは「食文化と自然」をテーマに交流をしました。クイズも盛り 上がり楽しい雰囲気での交流会となりました。糸満中からの発表では旧暦の文化 が強く息づいているため、お正月は2月10日ということや、周りが海で囲まれ ている糸満市だからできる糸満ハーレーという伝統のお祭りのことを教えてい ただきました。交流の中でも校舎の中を土足で歩いている様子を目の当たりにし てとても驚きました。私にとって学校内を土足で歩くという概念は全くなかった ので視野が広がるきっかけとなりました。

【写真 略】 旧海軍司令部壕 首里城公園 ひめゆりの塔 平和祈念公園 ヌヌマチガマ 優美堂(昼食) 山形の塔 民泊(琉装体験) 糸満中との交流会 民泊(三線体験) 民泊解散式

【資料】 最上広域市町村圏事務組合の沖縄中部広域圏交流事業
〇概要
山形県最上広域市町村圏事務組合と沖縄県中部広域市町村圏事務組合は、双方の政策顧問である東京工業大学名誉教授 (当時) の阿部統先生の紹介により、昭和63年 7月に全国で初めて姉妹広域圏の締結をし、以後交流がはじまった。交流の基本方針は、気候風土、自然環境、歴史、文化の全く異なる圏域が交流を通じて新たな可能性を追求し、21世紀に向けての人づくり交流、文化交流、特産品の交流等を活発化させ、両圏域の振興を図ることを目的とする。

〇報告
令和5年9月5日(火)~8日(金)
令和5年度少年少女沖縄派遣交流事業を実施

本交流事業は、最上地域の児童が生活習慣の異なる沖縄中部広域の子どもたちとの交流を通して、将来の最上地域を担う人材を育成するために、平成元年から実施されています。
今年度は、1月に最上地域に訪れる児童、嘉手納小学校、北谷町の子供たちとの児童交流や、道の駅かでな、首里城を見学して沖縄の文化を学んできました。
全4回の事前学習会で練習してきた、歌や花笠踊り、最上クイズの発表も好評で、沖縄の子どもたちが最上地域について興味を持ってくれる様子も見られました。
3年振りの沖縄派遣交流事業でしたが、大きなトラブルもなく、交流事業を実施することができました。

5.むすびに

寒河江むかしさがし (市史編纂委員 宇井 啓)から転載

日露戦役の時、三泉村出身の兵士は12名。その中に入倉の船田五郎(博家)がいた。五郎は、山形連隊の訓練を経て、極寒の黒溝台の激戦を経て帰郷した。その子武雄も近衛兵として皇居整備に当り226事件に遭遇。翌昭和12年の夏、中国大陸に渡り決死隊を指揮。激戦の最中、ムラの神様や家族の幻影を見たという。再び昭和17年の出征の時も、ムラの中の大神宮・金毘羅・荷渡・明星・愛宕などすべての小祠に武運長久を祈り、地蔵様の前の広場で入倉の壮行式にのぞんだ。酒・豆・田作・数の子が出て、万歳で送られた。
三泉村では役場の前で激励をうけ、小学生の楽隊に送られて、ハカセの前を通り、寒河江川橋南の柳の下で村人と別れた。再び柳の下を通って、ムラに帰れない人たちがいた。  武雄の弟鶴雄は、サイパン島で玉砕。22歳。30戸に満たぬ入倉の戦死者は、若い人8名だった。なかでも、中村政行家では3名を失った。父とその弟はフィリピンで、もう1人の弟は岡崎市上空でB29に体当たりして果てたという。家族を思いながらも生還できなかった人は、三泉村全体で103名。柳の大木は、この人たちの姿を再び見ることはなかった。
船田家の奥屋敷。ズラリと戦争の世紀の感状が並ぶ。 男まさりに働いて銃後を守った武雄の奥さんも居って、今なお戦争の記憶を色こくとどめていた。

本市の遺族会会長の三泉入倉にお住いの中村政行氏から戦死者の遺族台帳を拝見したことがありますが、まだ議員になって間もないころ、2015年の夏でした。
そして私たちが行政視察から帰寒した翌日の10月11日、今年のノーベル平和賞を、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に授与すると発表しました。被爆者の立場から世界に核兵器廃絶を訴えてきた活動を、高く評価したと伝えています。ノルウェー・ノーベル委員会のヨルゲン ・ヴァトネ・フリドネス委員長は、広島と長崎の被爆者による草の根運動の日本被団協が「核兵器のない世界実現を目指して努力し、核兵器は二度と使われてはならないのだと目撃者の証言から示したこと」を授賞理由としました。是非、本市の小中学生の修学旅行訪問地に、被爆地や地上戦の激戦地の戦災遺構を学習していただく意義がさらに高まったのではないでしょうか。

今回の行政視察地となった沖縄訪問は、人生で2回目の有意義なものとなりました。糸満市議会事務局様、政策推進課様、教育委員会生涯学習課様には、大変御多忙のところ快く受け入れをいただきましたこと、衷心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

糸満市議会にて撮影 筆者は右端

山形の塔参拝 筆者は右端